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日刊知的ぐうたら生活

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月別アーカイブ  【 2005年03月 】 

『158ポンドの結婚』

アーヴィングの『158ポンドの結婚』を読み終えた。これはゆっくりでいいとは思うものの、どうしても気になってしまって、ほかの本に行けないので、夕べ夜中に進めておいた。

これを読みながら、元レスラーのセイヴァリンに、ガープやオウェンといったアーヴィング作品の主人公たちが重なってきて、このあたりがアーヴィングの原点なのかなと思ったりした。一方、語り手である「僕」は、ガープやオウェンといった特殊な人物の傍らにいて、それを見守り、読者に語っている人物、例えば『オウェンのために祈りを』のジョンといった感じに受け取れた。

アーヴィングも、元レスラー(プロレスじゃないよ!)なので、スポーツとしてのレスリングに関する記述はプロなみだが、レスリングってなんとなくエロチックだと思っていたら、やっぱりそういうところを捉えていたんだなと。

アーヴィング独特の「奇怪な世界」というのが、あまり見えていないような気もしたのだが、そもそもスワッピングという四角関係の題材自体が、「奇怪な世界」とも言えるだろう。そして「僕」の妻であるウチの数奇な育ちというのも、「奇怪な世界」の一種だろうと思う。

あとがきを柴田元幸氏が書いているのだが、その中で気になった部分を書いておく。

●人はたいてい、「日常」とは、それこそ日常的な出来事が無限にくり返される安定した退屈な世界であると考える。「日常」は波乱にみちた「物語」とは無縁であり、そのような「物語」などは虚構にすぎないというわけだ。だがアーヴィングからしてみれば、何も起こらない日常という考えこそが絵空事であり虚構なのだ。アーヴィングはしばしば、誰もが物語の解体をとなえる現代にあってかたくなに物語の復権をめざす作家であるといわれる。たぶんその通りだが、彼は「日常」から逸脱したところに「物語」を見出しているのではない。「日常」そのものが偶然と危険にみちた「物語」なのだ。

●「僕」の父親は、本を終りまで読み通すことができない人間である。「どんな本でも終りにくるとたまらなく悲しくなってな」というのである。「僕」の父親はけして肯定的に書かれた人物ではない。けれどこの一言だけは、たぶん、作者自身の思いを伝えている。

本の終りが悲しいのは、それが人生の終りに重ね合されているからだ(事実、「僕」の父親が死んだとき「僕」は「親父がやっと何かをし終えた」という)。アーヴィングの小説の結末もまた、どんな肯定的な終り方であれ、つねにどこか哀しさを帯びている。それは、逸脱しつづける「日常」の延長線上に確実に控えている死の影が、物語を浸しているからだ。


〓〓〓 BOOK

◆読了した本

158ポンドの結婚/ジョン・アーヴィング (著), 斎藤 数衛 (翻訳)
単行本: 327 p ; サイズ(cm): 19 x 13
出版社: サンリオ ; ISBN: 4387892099 ; (1989/08)
カバーより
本書は、ジョン・アーヴィングの三冊目の長編小説である。また、処女作『熊を放つ』と大ベストセラー『ガープの世界』をつなぐターニング・ポイントとも言うべき内容を蔵している。

歴史小説家である「僕」と、元レスラーのセイヴァリンは、あの青春小説の秀作『熊を放つ』の主人公であったグラフとジギーのもうひとつの姿である。ただし、彼らはもはや青春のヒーローではない。結婚もし、子どももいる。

「僕」には、ウィーンで数奇な育ちをしたウチという妻がいる。元々ウィーンに生まれ育ったセイヴァリンは、ヤンキー娘のイーディスと結婚し、今は大学でドイツ語を教えるかたわら、レスリングのコーチをしている。

「僕」とウチ、セイヴァリンとイーディス、この二組の夫婦の成り立ち、夫婦交換の物語を通して、後に「アーヴィングの世界」として定着するすべての現代的なテーマの萌芽が描かれる。ここには、あの『ガープの世界』の一章がある。

※画像は原書 『The 158-Pound Marriage』/John Irving
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【 2005/03/15/23/47/56 (Tue) 】 読書と日常 | TB(0) | CM(2)