★世界は終わり、荒涼とした道を淡々と
荒涼、沈黙、神なき世界。父と息子は冬に備えて南へと向かう。空には雲がたれこめ、寒さが募る。荒れた庭で死んだライラックの枝がもつれあい、去っていった息子の母は夢に現れるのみ。家のポーチには何年も前に死んだ男が座り、人食の<野蛮人>が襲いくる。生き残ったわずかな人々は限りある資源をめぐって殺しあう。
ピンチョン、デリーロらと並ぶ大作家マッカーシーの最新作は、なにかカタストロフィが起きた後の週末世界の物語である。具体的な経緯はいっさい説明されない。大惨事後に生まれた少年は、野生のキノコをごちそうとして食べ、不満も漏らさないが、世界の深い絶望をおそらく本能的に分かっているのだ。そんな息子を守るために、父は一刻一刻を生き延びようとする。「火を運ぶ者」として。
1950年代にはケルアックによる青春の書『オン・ザ・ロード』が自由を謳いあげた。「旅の途中」を意味するこの題名から on がとれた『ザ・ロード』では、そこを歩く人間の姿は消え、道だけが残った。
「やるべきことのリストなどなかった。今日一日があるだけで幸運だった。この一時間があるだけで、“あとで”という時間はなかった。今がその“あとで”だった」
季節の移ろいも、時間の区切りも失った世界は、ただ平坦に薄暗く広がり、そのむきだしの荒涼を、マッカーシーは淡々と記述する。いかなるメッセージも文脈も剥がれた世界で言葉の無力さを伝える言葉の力強さよ。
「四月は残酷きわまる月。死んだ地にライラックを咲かす」に始まり、「冬には南へまいります」というT・S・エリオットの長詩「荒地」から伸びる道の上に、『ザ・ロード』もまた位置しているのだろう。しかし最後には一縷の光を感じさせる。作者独自のスタイルの原文には、カンマがごく少なく、訳者の黒原氏はその文体を生かすために、地の文で読点は(一つのパターンを除いて)使わないというルールを自らに課したと見え、茫々たる荒廃の表現に貢献している。─朝日新聞より:評・鴻巣友希子(翻訳家)
※マッカーシーは大好きな作家だが、いつの間に大作家と評されるようになったのだろう。孤高の作家がやっと日の目を見たということで、そのこと事態は嬉しいことではあるけれど、私としてみれば、マッカーシーはその表現の独自性で別格だから、ピンチョンやデリーロやケルアックと一緒にしないでくれと言いたいし、彼らと並べて書いたからといって、マッカーシーの世界が分かるわけでもない。マッカーシー自身も、彼らと並べられて仲間のように扱われ、いつの間にか大作家と言われることを嬉しいと思うのかどうか疑問でもある。
また翻訳の黒原氏は、翻訳の際に何もわざわざルールを課したわけでもないと思う。マッカーシーの文体そのままに訳しているわけで(それが翻訳家のつとめだろう)、そのマッカーシー節を最大限に引き出すために、句読点などということだけではなく、多大な勉強と努力をされてきたのを知っている。