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日刊知的ぐうたら生活

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<ルーンロード>シリーズ

デイヴィッド・ファーランドの 『大地の王の再来(上)ルーンロードⅠ』 を読書中。冒頭数行で、もうこれはダメと思った。エミリー・ロッダの<ローワン>シリーズよりも対象年齢が高いのはわかるが、それにしても、ぐだぐだと余計な文章が続く。ファンタジー、特に異世界ものは冒頭で入り込めないと、だいたいダメだ。どうでもいいような説明書きで始まるような話は、そこで読みたくなくなる。それでも、まだこれから面白くなるかも・・・とわずかな期待を抱いて読み続けてはいるのだが、だるいなあ、これ。不必要にルビも多いし。

衣服とか生活様式が、ほとんど中世ヨーロッパの感じなのに、いきなり「賦予」とかが出てくる。これはゲームの世界の言葉らしい。他人の能力をもらって強くなるということだ。筋力や持久力、視力、聴力、魅力、叡智などなど、とにかく人の能力を取り込むわけだが、それを差し出した方は、その分その部分が弱まる。筋力なら歩けなくなり、寝たきりになる場合もあるし、視力なら目が見えなくなるといった具合だ。そして「賦与」を受けられるのは、当然ながら力のあるものか、お金持ちに限られる。

話の登場人物は、だいたいが王家に関わりがあるような高貴な人たちばかりだから、ほとんどが自分以外の力を持っていて、誰それは<筋力>を5人分持っているとかという話になる。敵にやられれば、また貧しい者などから「賦予」させるのだ。中には100人分もの「賦与」を受けている者もいる。

この話の問題点は、ここなのだ。普通、人間は一度しか死なない。一度死ねば終わりだ。だから、自分の命も相手の命も大事にしようという気持ちも生まれるわけだが、この話では、力やお金があれば、また生き返ることができる。すでに死んでしまったものは生き返らないが、瀕死の状態なら、「賦与」によって助かることになっている。

これがいかにもゲーム的な感覚で、好きになれない。ゲームでエネルギーを摂取して強くなるのと、基本的には同じだ。この設定が、話に入り込めない大きな要因だと思う。

<魅力>もわけがわからない。3人分の<魅力>を持っていれば、それだけ美しく魅力的になるわけだが、生まれつきはどうだったのか?もちろん、この疑問は登場人物たちも当然持っているわけで、「あの美貌は何人分だな」などと値踏みをして、引き算しながら相手に近づく。

また「賦与」させた相手が死ぬと、その力は消え去り、新しい「賦与」を受けるわけだが、外見的なものも内面的なものもあるから、そういうことが頻繁に行われると、その人物の実体は、何が何だかまるでわからないということになるだろう。

あるいは、力の補給ができなければ、元の自分に戻るわけだから、その人間の社会的評価も価値も下がってしまうというわけだ。もともと自分の力ではないのだから、自業自得とも言えるが。

というわけで、この「賦与」を、当然悪事に使うものもいるわけで、そこで善と悪との戦いということになるのだが、どっちもどっちだよねという感じで、どうでもよくなっている。こうなると、もうファンタジーの域を外れ、完璧にゲーム世代の話だなという感じ。

それはそうと、昨日悩んでいたエミリー・ロッダの<ローワン>シリーズは、結局図書館で借りてしまうことにした。原書を検索 してみたところ、表紙がみなヘビに見えて嫌だったのだ。
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【 2005/09/16/23/16/44 (Fri) 】 読書と日常 | TB(0) | CM(0)
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